「自信」とはなんでしょうね。
「自信」とは、
自分の才能・価値を信ずること。自分自身を信ずる心。(weblio辞書より)
私、自分に自信があるかどうかなんてわかりません。
「自信がある」と断言する人がいたとしても、その人に本当に自信があるかなんて、誰にも、実は本人にすらわからないのではないかと思います。
じゃあ、自信て幻想?
いや、そうとも言い切れないと思います。
私、「これが自信ってものなのかも…」と気づきまして。つい最近。
ちょっと説明させてくださいね。
私の氏名は「長沼美恵」です。ところが、数日前までウェブサイトやブログで「長沼みえ」と表記していました。
読み方が「みえ」とも「よしえ」とも取れるという理由でひらがな表記にしていたのですが。
それと、プロフィールに今まで学んだことや資格を羅列していました。
それが、少し前からとても違和感を感じるようになって、結局、名前は漢字に戻し、資格は削除しました。
「資格の羅列は自信のなさの表れ」です。素の自分に自信がないから資格で武装する。ありがちです。
名前も、当初は全く自覚してなかったけど、自信のなさを誤魔化すためだったのかもと気づいたわけです。本名=素の自分でセッションを提供するのが怖いということだと思います。
実は、チャネラーの妹に「ひらがな表記に違和感が出てきて」と相談した時に指摘され、「うっイタッ」となり自覚することとなりました。
だからと言って、本名で活動していない人が全て自信がないわけではありません。
資格も然り。
人によって事情がありますので。あくまでも私の場合です。
で、「自信って何?」って話しですよね。
実は、名前を漢字に戻して、資格を削除した時に、「あれ?私って少しだけ自信がついた?」とふと感じたので、どういうことか考えてみたんです。
そしたら、すぐ答えが降りてきました。考える間もなく。
今の私の結論です。断言はできませんよ。
たぶん、『人生、状況、大いなる叡智、宇宙、神様、目に見えない流れなどに委ねられること』ではないかと。
決して投げやりではなく、「物事はなるようにしかならない」と受け入れることだと思います。
とは言え、今でも「私、自信があります!」とは断言できないし、全て委ねられているわけでもありません。
ホント、まだまだです。
本音を言えば、自信があると確信したい。けど、そんな時は永遠に訪れないとも感じています。
ただ、「少しだけ委ねられるようになったのかな」と思う節はあります。
まあ、自分でコントロールできることってほとんどないって気づいたと言えます。特に私が提供しているセッションは基本コントロールしません。委ねまくり。
でも、何もしないとか努力しないとかでもないんです。自分で行動した先の話しかもしれません。うんそうだ、そんな気がしてきた。
だからと言って、「みんな!心配せずに委ねてしまおう!」とアジる気にもならないけど。
普通は無理ですもんね。
自信があろうがなかろうが、動くしかないのかなと思います。恐る恐るでも。
「自分、怖がってるな」と自覚しながら。これ意外と大事かも。
ただ、結果に執着しすぎるのは、ますます恐怖が大きくなるかもしれないとは思っています。
それと、物事をコントロールしようと頑張り過ぎるのも無駄な抵抗のような気がします。
この辺の匙加減は人それぞれ。(ああ身も蓋もない)
どうしたら委ねられるようになるのかは、私はまだまだ道半ばにあります。
一生の課題かも。
よく「決めるだけ」とか「設定する」とか聞くけど、私には難しいみたい。向き不向きがあるから。
おそらく、自分で自分を否定する気持ちが減って、どんな自分でもある程度受け入れられるようになると、委ねられるようになってくるのではないかと思います。
これが「自信」と言えるものなのかも。
具体的にどうしたらいいのかと問われれば、自分から逃げずに丁寧に見てあげるしかないと答えるかな。
これが私の現段階での結論ですね。あくまでも現段階での。
長沼美恵
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